レポートを書くということ

現在、放送大学学生の特権である「放送授業見放題」を存分に楽しんでいる。放送大学に在学していると過去の試験問題も見られるから、全講義を視聴した後には試験にも取り組むことにしている。

これまでに4つの講義を受講し終えて試験まで終了させたのだが、正直に言うと内容がさほど頭に残っていない。面白かった部分は多少記憶にあるが、とてもではないが学問を修めたとは言えないと感じ一種の焦りを抱いている。

そこでふと考えたのが、レポートを書くことの有用性だ。レポートを書こうと思うと講義の内容を頭の中で反芻し、自分の考えとすり合わせ、資料を探し回ることになる。この過程で「学んでいる」ことを実感するのではないか。

択一式のテストも知識を覚えたかの確認には使える。しかし、血肉になっていない知識は思考の材料にはならない。血肉になっている知識をもとに考える中でふと頭に浮かぶことはあっても、思考の様式に表れては来ないのではないだろうか。

昨日のITストラテジストの試験で(物理的な意味で)手を震わせながら論文を書いたことを思い出しながら、そんなことをふと考えた。

結論もないただの雑記だが、単に憶えている知識と自分の思考回路にまで影響を及ぼす知識があるように思えて興味深く備忘録として残したいと思った。これは実体験を通すか否かの違いなのか、或いは学問を修めることのみによっても変化し得るものなのか。学問を修める過程において違いを生み出す工程や時間の重ね方(議論やレポート)があるものなのか。

せっかくなので、自分をモニタリングしながらこの点について考えていきたい。

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