万国のマルクス主義者、ピケティ主義者と宣言せよ

ピケティの入門書を読んでいて思った。「マルクスじゃん」と。

なお、タイトルは共産党宣言っぽくしたかっただけでマルクスを捨ててピケティに乗り換えよと言いたいのではない。

マルクスとピケティの類似点をあげるとするならr>gであろう。あまりにも有名なピケティのr>gだが、言っていることはマルクスと同じだ。格差が広がる(ピケティ)と言うのと搾取される(マルクス)というのでは印象等があまりに異なるが、捉えている現象は同じものなのだ。

では、この二人の出した処方箋の違いはどこに由来するのだろうか。それこそ、下部構造によるのではないだろうか。みんな大好きカールおじさんの唯物史観である。

そう、ピケティもマルクスも眼前に広がる光景をもとに資本主義の行く末を考えた。そしてピケティは富の再分配を望み、マルクスは闘争という答えを出したのだ。

ピケティの前には民主主義と穏便な政府があり、教育された市民がいた。そしてマルクスの前には小さな大人として四六時中働くリヴァプールの少年や結核に倒れる富岡製糸場の女工がいたのである。これが上部構造たる”資本主義との向き合い方”に違いとして現れたに過ぎない。

人の思考は彼/彼女らが目にしたもの聞いたことに対する反応として表れるのだから、状況が違えば考えることも必然的に違う。普遍的な考え方というものが存在するが、それはその前提自体が普遍的なのであろう。例えば、人間について考えたなら五千年前のブッダと自分が似たことを感じてもおかしくないのだ。そういう意味で誰しも環境からの刺激に反応するという非常に”動物的”行動を行っている。

さて、我々の眼前に広がっているのはどちらの光景であろうか。幼い少年は学んでるか、それとも働いているか。時代的に見える景色は前者でありピケティと似ていることだろう。つまり、マルクス主義者の政策はピケティ的であって然るべきではないか。少なくとも、マルクス的観察を行えばその結論はマルクス的ではないはずだ。繰り返すようだが、時代が違い社会が異なるのだから。

マルクスの史観について考えていてふと思い出したのだが「一見革命的なことをする人物が現れたように見えてもただその人物は時計の針を早く進めているだけだ」という話をどこかで聞いてずっと気になっている。進歩史観的で私が見聞きしたとなるとマルクス関係かなと思うがさっぱり思い出せないのだ。確かYoutubeか何かを流し聞きしていたのだが、一向に再会できていない。それをどこで聞いていたかは朧気ながら覚えているというのに!

話が逸れたが、マルクスが壮大なる社会実験が(ほぼ)失敗に終わったからと過去の思想家として語られるのはとても寂しい。彼の考えた内容ではなく思考方法を学ぶことで現代であっても得ることは多いはずだ。

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