義務教育と学びの面白さ

小学校から大学までの教育期間を終え、社会人として働いた後に再び教育に戻ってきた。そして思うことは、義務から離れた勉強は面白いということである。

学生は忙しい。1日に5コマも6コマも授業があったら消化し切れる訳がないと思う。習ったことを復習するのがせいぜいだ。実際、特に高校までは予習復習以外はほとんど話題にもならない。(たった今気付いたことだが)授業の内容を自分なりに深める時間があって、はじめて勉強は面白いのに。

思えば、予想ではあるがアメリカの大学生はこれをやっているのだろう。欧米の大学は卒業が大変だと聞く。授業だけでは追いつかないというのは、授業ではトピックや考え方が紹介され内容を理解するには自学が必要だからではないだろうか。こんなことを一人考えたところで答えはなく、知ったところで留学する予定はないので有益なのかすら分からないが・・・。

この「面白い」勉強の過程がどの成長段階から実施可能なのかは定かではない。少なくとも小学校低学年の自動には無理だろうという程度の想像がつくくらいだ。もしかしたら、それが大学からなのかも知れないが、それにしても日本で大学を卒業しておいて在学中全くこの事に気付かなかったのは何ということだろう。確認を取った訳では無いが、私だけではないはずだ。この、学びの面白さに国民の5割が大学在学中に気付いていたなら社会も変わりそうなものである。

さて、学生時代勉強が苦にならなかった人々は問題をゲームのように解くのが面白かったと言う人が多いように思う。それは当然の話で、学習内容が詰め込まれており深化させる機会がないとすると学び自体ではなく他の面に面白さを見出すことになる。

最近「チ。―地球の運動について―(魚富)」という漫画を読みそれがとても面白かったのだが、読後に義務教育で学ぶ内容は結論しかないダイジェストだったのだ、と衝撃を受けた。

教科書のたった1ページに詰め込まれた知識は、人となりも知らない幾人もの人々が途方もない時間や一生をかけて見出したものなのだろう。(もちろん、そうでないものもあると思うが)誰かが時間や人生を賭けるに値すると思えたほど、その誰かにとっては面白いことだったのだ。

じっくり学べば個々人の興味に差こそあれ、どれも面白いものなのだと思う。しかし、そんなことをしていては必要とされる内容を学び切ることは出来ない。無常である。勉強の面白さを知るべき年代において勉強の面白さを知ってしまって「余計なこと」に時間を費やしては、その後の学びの機会に関わってくるかも知れない。そんなことを思いながら我が子の教育について考えるとゲーム的な面白さを体験出来るようにしておこうかなと考えてしまう。

それにしても学生時代のどこかの段階では学びの面白さを知ることが出来るようにして欲しいと切に思う。「学び」の段階で思索を深めるためにも基礎的な知識は必要だろうから、高校までのダイジェスト教育も否定しないがそれまでの学びが単なるダイジェストであったと知る機会が与えられるようになって欲しい。

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